ABOUT SHIYUKAI 志友会について

百年先の日本を、希望ある国へ

一般社団法人志友会 中島晋哉

2010年10月、経済活動の活性化を図ることによって日本社会への貢献を
実現することを目指し、志友会は産声をあげた。
2008年の着想から2年余。いかにして志友会設立へと至ったのか―。
創業者の中島晋哉が、目指すべき志友会の姿を含め、インタビューに答えた。

志友会の着想にいたるまで

「日本の将来に憂いを感じたんです」
いかにもファッション業界に長く身を置いてきたというような、こなれたセンスの着こなしの中島は、その華やかなイメージとは裏腹にこんな言葉から切り出した。

日本を出た者が海外から祖国を見たとき、多くの者にはこんな思いが去来することだろう。「日本には、ほかの国に変えがたい素晴らしい文化・社会が残っている」という思い。その延長上にある「今のままで、果たしてそれが持続できるのだろうか」という不安。ニューヨークに赴任していた当時30代の中島とて例外ではなかった。日本人であるという抗いきれない事実、それを誇りに思いたいという願い、その誇りが消えてしまうのではないかという危機感は、後年、中島を「志友会」設立へと掻き立てる原動力となる。

現在、多くの国民が国の将来を憂えている。その憂いを抱えたまま何事もなかったかのように毎日の暮らしを営んでいる者も少なくはない。しかし、中島は違った。「素敵な人たち」を繋ぐ役割を果たせると自覚していた中島は、会社勤めの傍ら、株式会社EPLGAを設立し、「THE PLATFORM」という仲間たちとの語りの場を作った。39歳のころだ。ここで同じ志を持つ仲間たちと語る中、組織化し、ともに時間と目的を共有化していかなければ、日本を憂えるばかりで社会に役立つ活動をすることは難しいのではないかとの考えにいたる。そして2010年、晴れて「志友会」という組織として登記されたというわけだ。

中島が「違う」のは今に始まったことではなく、子どものころから人と違ったことをしたがる人間だったのだという。戦後経済成長が見込まれる社会でレールに敷かれた人生を歩むことなど、中島には想像だにできなかった。 「敷かれたレールから外れよう、外れようと、蛇行してきたようなものです。だから、人よりは成長スピードは遅いですよ」

中島はそう笑うが、その「蛇行」こそが現在の中島を形成するために大きな役割を果たしたと自覚したのは最近のことだ。蛇行の途中で、魅力的な仲間たちと出会い、触発され、人間の幅が広がってきた。中島はそう考えている。
人と同じことをしたくなかった少年が、海外に出て日本の将来を憂えたとき、「自分の力で社会を変えたい」という思いへ昇華されていったというのは、あながち筋違いな話ではないだろう。しかし、自分の力では限界がある。どのような「力」があれば社会を変えることができるのか。 それが「経済」という力であり、「同志」という力である。 結論を言ってしまえば、そのために設立されたのが「志友会」であると言っていいだろう。

志友会の着想にいたるまで

「幸せとは、決して自分だけで得られるものではありません。家族が幸せにならないと自分は幸せになれない、地域が幸せにならないと家族は幸せになれない。国が幸せにならないと地域は幸せになれない。だから国のあり方、社会のあり方、地域のあり方、環境のあり方を最初に考えることは当たり前のことだと思うのです」

誰もが自身の幸せを願い、家族の幸福を願う。そのためには身を置く社会そのものが幸福でなければならないのは自明の論理だろう。しかし残念なことに現在の日本は、長引く不況、昨年の大震災、そして長きにわたる政治不信と、希望を見出せる環境が整っていない。「混沌とした」という表現を使いたくなるほどの状況だが、そんなときにこそ「ヒーロー」が現れるものだ。それは、歴史が証明している。 「ゴルフ界の宮里愛選手や石川遼選手を見ると良くわかります。彼らが現れたことによって、衰退しかかっていたゴルフ界の業況が一気に好転しました。世間の注目が集まり、スポンサーが増え、若手が集まり、ゴルフ人口増加によってゴルフ商品が売れ経済が回りだす、という好循環が生まれます。政治や経済の世界でもヒーローが現れなければなりません。政治には、強力なリーダシップで日本を引っ張り、自己犠牲ができる、西郷隆盛のようなリーダーが必要です。それは今の子どもたちや、もっと下の世代かもしれません。綺羅星のごとくヒーローが現れたときに、彼らをバックアップできるような力を、周囲の人間が持っておく必要があります。我々はその周囲の人間の一つの塊になっておきたいと考えています。もちろん、現れないなら我々が見つけ出す、創り出す、ということも必要な仕事です。

だからこそ、まずは志友会の理事たちが成長し、志友会そのものが成長する必要があるのです。志友会の中から強力な成功者が誕生して、他のメンバーを引っ張っていくようになっていくということも重要なステップだと思っています。 志友会は経済人の集まりですが、独自の事業を行うとともに人を内面・スキルの両面で育成し、政治にも意見を言える、それによって社会を変える、そんな会にしていきたいと思っています」

現在、志友会ではセミナー開催等の教育事業を始め、いくつかの事業が展開されているが、その中で、中島が「メンバー全員が一致団結して活動するという姿勢に変わった」と成果を評価しているのが、東日本大震災支援だ。震災翌日には支援構想を練り、二日後には募金活動を開始、支援物資の購入、仕分けや運搬の代行などを行なった。詳しくは割愛するが、「KOKORO ONE PROJECT」として、現在も継続して様々な支援活動を続けている。 経済を活性化していくこと、同時に教育事業を行うことで政治も変わり、ひいては社会全体が好転していく。 それこそが志友会の目指すべき在り方という。社会へ影響を与え続けるための活動は、今後さらに加速してゆく予定だ。

社会を変えるために、変わり続ける組織を

志友会は経済の力で社会を変えていこうとする経営者の集まりだ。経済が良くなれば社会も変わる。しかし目的は自分たちのためではなく、あくまでも社会のために経済を良くしていかなければならない。中島は「私利ではない、利他」の精神を持ち続けたいと言う。そう信じ、そのために行動する同じ志を持った仲間たちが集まり、この会は形成されている。 「社会に影響を与えるためには、まずは自分自身が成長し、成功しなければなりません。ひと一人が出来ることは限られている。だから互いが成長し合いながら、同志が集まって輪を作っていくということが必要だったんです」

日本経済の向上のために組織された経営者の集まりといえば、経済同友会がある。1946年の発足から実に60年もの長きにわたり、日本経済を牽引してきた団体の一つだ。誰もが知るこの経営者の集団は、発足当時、30〜40代の経営者たちの尽力によって戦後日本復興に大きな役割を果たした。中島も経済同友会を大いに参考にしたと話す。 「設立当初の同友会の趣意書は非常に参考にさせていただきました。けれども僕らには、別の方法、役割で社会に貢献できることがあると信じています。自分一人の力は限られていますが、経営者が集まれば、少しは社会に貢献できると考えています」

中島の着想から4年、発足から2年の志友会もまた、発足当時の経済同友会と同じく30〜40代の経営者が集まる。「まだまだ仲良しクラブの延長でしかない我々がヨチヨチ歩きしている状態」と自らを評すが、経済同友会がそうだったように、社会を大きく変える一翼となりたいという思いは強い。 そしてその思いは「経済を良くしたい」という目標を掲げているが、究極の目指すところは「日本を誇りある国へ」と導くことだ。誰もが赤ん坊から大人になるように、組織もまた未熟なところから成長を重ね、社会に影響を与える集団となる。そして組織が巨大化し、権威が持続してくると、皮肉なことに老害集団と化してしまう可能性が大いにある。志友会を50年続く組織にしたいと話す中島だが、もし老害集団となってしまったらどうしますか、という意地悪な質問に、中島は「そうならないように変わり続ける」という前提を宣言した上で、あっさりとこう言った。 「そのときは潰してほしいですね」

日本を誇りある国へ。大きな志を掲げ、一歩一歩、しかし確実に歩みを進めている。

(敬称略。取材・文/関口暁子)